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三国志大戦のススメ

~三国志大戦 頂上を目指して~

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関羽 雲長(かんう うんちょう)

関羽 雲長(かんう うんちょう)


字(あざな)/雲長(うんちょう)

生没年/162?~219年(58才)

出身/司隷・河東郡解良

所属/劉備~曹操~劉備(蜀)

身長/9尺(207cm)

武器/82斤(約18Kg)の青竜偃月刀


その出身地から、塩の密売に関っていたといわれている。
また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。
官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。

その後、劉備張飛と出会い、義兄弟の契りを結んで、
終生劉備に忠誠を尽くした。
黄巾の乱の時からの劉備の部下。
地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたという。

劉備が曹操に反乱を起こして袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。
ちょうど袁紹と曹操が戦っている最中であったが、曹操は、関羽の義に惚れ込んでおり、どうしても関羽を手元に残したいと思ったが、功を立てると必ずや劉備のもとに戻ると思い、様々な贈り物をしたが関羽はこれらを封印して受け取らなかった。

白馬の戦いで顔良を手ずから討ち取った功績を土産にして、5つの関所を突破し、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して彼を追っては成らないと言い聞かせた。

赤壁の戦いの後、劉備が益州を攻略すると、関羽は荊州の守備を任され、魏・呉に睨みを効かせていた。しかし関羽には部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があった(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった)。

219年に樊城の曹仁を攻めたときに呉の婚姻の申し入れを断り、孫権を怒らせ、逆に魏と呉の軍に挟撃されてしまう事になる。
さらに孫権は、関羽に不満を持っていた麋芳と傅士仁に誘いをかけ寝返らせた。退路を断たれた関羽と息子の関平は、呂蒙、陸遜により捕らえられ孫権により処刑された。

関羽を殺された劉備は怒りのあまり、呉に対し夷陵の戦いを起こし、大敗した。

武を誇る一方で、『春秋左氏伝』をそらんじたり、詩を吟じるなど文武両道の面を持っていた。

260年、蜀漢より壮穆侯の諡号を送られた。


ARACHINA


[ 2010/01/17 20:00 ] 三国志武将列伝 | TB(0) | CM(0)

劉備 玄徳(りゅうび げんとく)

劉備 玄徳(りゅうび げんとく)


王朝 :蜀漢
在位期間 :221年 - 223年
姓・諱 :劉備
字 :玄徳
諡号 :昭烈皇帝
廟号 :不詳
生年 :161年
没年 :223年6月10日
父 :劉弘
陵墓 :恵陵
年号 :章武(221年 - 223年)


黄巾の乱が発生すると、関羽張飛とともに、義勇軍を結成し、名をあげた。
後に、公孫サン陶謙呂布曹操袁紹劉表のもとに次々と従っては、
離れていった。
劉備は戦闘の指揮には優れていたものの明確な戦略は持っておらず、
各地を転々としていた。
この時期の劉備に果たして演義で書かれるような天下平定の大望があったかはっきりと分からない。

劉備は荊州の劉表の所に身を寄せていたとき、諸葛亮を軍師とした。
諸葛亮天下三分の計を説かれた劉備は以後、
明確な戦略に基いて行動するようになる。

劉表が没し、劉表の後を継いだ劉曹操に降伏したため、
曹操が荊州を占領することが確実になった。
劉備軍は逃走の後孫権と結び、赤壁の戦いにおいて、曹操軍を破った。

赤壁の戦いの後劉備は荊州を占拠し、益州も併せた。
また、曹操を破って、漢中を手に入れた。

曹操が216年に魏王になったことも受けて、219年劉備漢中王を自称した。

220年に曹操の子曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けたとき、
劉備の勢力は献帝が殺害されたと誤解し、221年に劉備を漢の皇帝に推戴した。
蜀に作られた漢王朝であるため、
後漢(東漢)、前漢(西漢)と区別するため蜀漢とも言う。

劉備は即位の後呉と戦うが夷陵の戦いで惨敗
諸葛亮に後事を頼み、223年永安と改称した白帝城において病没した。

陳寿が著した史書『三国志』の蜀書先主伝には、
劉備は情に厚く人望がある人物で漢の高祖劉邦を思わせるものがあり、
「英雄之器」を持った人物であったと書かれている。
つまり任侠の風あるならず者、
人情味のある親分肌の人物という一面を持っていたのであり、
三国志演義が描く信義に厚い聖人君子のような人物像とは相違がある。

三国志は魏を正統王朝として書かれているが
(陳寿は蜀に仕えたが蜀の滅亡により晋に仕え、この時三国志を完成させた。)

三国志演義は蜀が正統王朝としており、ここに史実観の違いが見え隠れする

ARACHINA








[ 2010/01/01 22:53 ] 三国志武将列伝 | TB(0) | CM(0)
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